Chocolectio

読書記録、読書感想文などをかきかきしていくよてい

最近読んだもの '17/7/30

 

上記2本をレポート用に読んだ。レポートも提出したばかりなのでここに具体的な感想をいますぐ投げるのは憚られるが、一言付しておけば、正直消化しきれていない。

ブログはじめ、最近読んだもの。

 

最近まとめて読んだのは上記の論文の高々一本だけれど、これが整理の効いた論考で、現状広義においても非ライプニッツィアンであるとしか言えない私には大変勉強になった。

ざっと読んだまとめを掲げておく。前半、著者の問題提起は、ライプニッツの « apperceptio » ──著者は「意識的表象」の訳語をあてている──が、たとえば、個々の表象 (perceptio) へと向かう (ad-) ようなイメージで捉えられる何か、あるいは、カント流に従来言われる「経験的統覚」などといったものではない、という点にあるといえるだろうか*1。前半、ライプニッツの « apperceptio » に関する著者自身の説は、「全宇宙を表出するモナド」という構図を成り立たせるのが、デカルト的な道程では排除されてしまう、思惟に上らないレベルの微小表象の存在であり、また微小表象と知覚・思惟との領域を隔てるのが意識的表象の有無であって、それゆえ動物も微小表象と知覚とまでは持つことを併せつつ考えれば、動物が意識的表象をもつともいいうる、という形でまとめられるだろう。

後半、« apperceptio » についてヴォルフないしヴォルフ学派において提出された「差異=区別」の問題系は、──恐らくどちらかというと引用されるヴォルフのテクストが読みづらいために──、前半よりもやや追いづらく感じられたし、私の理解度もだいぶ下がっていると思う。ライプニッツ後期によってなされた意識的表象に関するこのような洞察が、テクスト受容上の問題でヴォルフ並びにその後継者においては精細な形で活かされることなく、しかしそこで用意された図式がラインホルトの意識律を用意する下地になる、という線が、Neeb とともに描かれている、とまとめてしまえばいいだろうか。だいぶラフな一本(二本?)書きだけれど、そう日の経たないうちにもう一度読み直したい。

私は今までライプニッツについて、いくつかの著作を邦訳で、また断片的に仏語で読んだことがある程度であり、二次文献などは少しもフォローしていなかったわけだけれど、これを機にライプニッツの勉強も始めていこうと思う。それくらいに啓発的だった。また、18世紀前半のドイツ哲学を経てカント、それからドイツ観念論へ、という道筋を確認するためのヒントも、若干は得られたように思う。それと、派生的ではあるが、動物の精神の問題が、哲学的に重要で取り逃せないポイントであることをほぼ初めて実感した。

*1:カントの統覚 (Apperzeption) についての簡単な整理は、たとえば中島義道『カントの自我論』(岩波書店、2007年)pp. 20–1 をみよ。ここで中島は、ライプニッツの « apperceptio » について今述べたような図式的整理を概ねそのまま挙げているように思われる。